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第12回 家づくり50年の反省

1.昭和21年戦災の焼け跡から

 太平洋戦争敗戦の翌年昭和21年1月。東京は江東区大島の焼け跡に、ある企業が30坪位の工場を建てることになった。間口一間奥行き一間半の小屋を建て、そこに建築会社から大工工事を請け負った親方と寝泊りし、大工工事に就いたのが私の大工見習いとしての第一歩だった。
 昭和7年11月23日生まれの私は、当時13歳と3ヵ月の文字通りの少年であった。本来ならば中学校や国民学校の高等科などにまだ就学していなければならない年令であったが、家庭の事情から学校を止めざるを得なかった。当然自ら選んだ大工職人の道ではなかった。
 大工の見習いに就きながらも、大工を終生の仕事とする気はなかったが、それでも20歳を過ぎた頃には大工として一人前の手間賃が取れるようになり、仕事も面白くなってきた。いつしか先輩職人の仕事に憧れる自分となっていた。
 そのうち知人から新築を頼まれるようになると、その信頼に応えるべく、一生懸命に仕上げたことを思い出す。その時、施主から思いもよらず感謝をされたことが、私の中に眠っていた「ものづくりの心」を目覚めさせたのだと思う。
 それから五十有余年を経て振り返ってみると、成るように成ってきたとはいえ、当時は自我のみで突っ走って来たことが、今となると間違っていたことに気付き、反省あるのみである。

2.中野工務店創業の動機

 昭和32〜33年頃になると「もはや戦後ではない」などと言われるようになった。私の仕事も忙しくなり、修繕工事から増改築、新築工事などを頼まれるようになってきた。
 それまで、大工の技能はマスターしていたが、設計など建築士制度の下ではライセンスがなければいくら腕が良くても、デザインセンスがあっても、社会には認められず、大工として自分で家をつくることはできない、と思うようになった。
 そのうち職人も使うようになり、いくらか体に自由ができてきたので、専門学校の夜間部に通った。その結果、卒業後数年で建築士の資格を取ることができた。
 年令も職歴も若い大工であったが、地元市川生まれということもあって仕事には恵まれた。そして、仕事が忙しくなるにつれ資金面も忙しくなり、月末になるといつも材料代や手間賃の支払いに追われるようになっていった。
 いわゆる「どんぶり勘定」であったので、商売の金と自分の金とをきちんと分けなければいけないと痛感し、会社にして帳簿をつけようと個人としての大工職自営から7年経った昭和34年に株式会社中野工務店を設立した。

 やがて昭和39年には東京オリンピックも開催され、世は高度経済成長の右肩上がりの時代が続いた。我が社も創立25年を迎えた昭和59年頃には自社で直接受注する住宅工事に加え、大手ハウスメーカーの下請けから公共工事にまで手を広げ、新設の学校や公営住宅などの大型工事を受注することができるようにまで業容を伸ばすことができた。
 公共工事の営業と住宅の営業は同じ建築工事であっても方法が異なる。別会社として分離できればよいが、地域の小規模建設会社では通常、住宅と公共工事の営業を両立させるのは難しい。
 弊社の住宅工事部門が落伍することなく時代の進歩についてこられたのは、ハウスメーカーとの付き合いがあったからだと今になって思う。同業工務店だけの付き合いだけだったら、新しいデザイン、工法の情報が入らず、ビルものだけしかできない零細建築業者に留まっていただろう。

3.狂った時期  1980〜1990

市川市営住宅 1979年
 昭和55年頃から、当社のある市川市でも住民の増加に伴う学校不足が顕著になり、毎年、数校の新設校舎が建築された。
 当時、自社受注の工事に加え、大手ハウスメーカーの下請け工事も年間数十棟を施工するようになっていたため、役所に提出する指名申請書に記載する完成工事高もかなりの額を記載することができ、指名参加数年で市、県ともにAランクの格付けを得ることができた。その結果、毎年役所から配給割り当てでももらうように大型の工事を受注することができた。
 ひと工事10億もする学校を、年間の完工高せいぜい10億位の一工務店が大手ゼネコンに混ざって競争入札に参加し、落札できるということが理解できない、という向きがあると思うが、施工技術がしっかりしていたら、地元業者に限っては受注できる仕組みが当時は存在していた。文字通り地縁、人縁の賜物だったと思う。
 大手ハウスメーカーの下請け工事も、木造住宅より鉄筋コンクリート造、鉄骨造が主流になり、この部門でも工事量は右肩上がりであった。これらに加え、昭和50年頃から参加していた、Mホームの仕事が増加し、2×4だけで毎月5〜10棟受注していた。
 仕事はいくらでもあった。ハウスメーカーからはもっと施工体制を増やせと、ハッパの掛けられ放しであった。

4.業容拡大するが社内まとまらず

 当時は仕事を受注することよりも、受注した仕事をいかにこなすかの苦労であった。
 大工職人の高齢化が進み、戦後のトレーニングを受けていない、にわか大工が増加し、工務店にとって大工技能の低下は死活問題となっていた。
 先に述べた大工養成塾「番匠塾」を開塾したのもこの時期であったが、職人だけではなく、現場監督、設計積算者などの不足に悩まされ、社長の仕事の半分は、リクルートに費やされた。後にも先にももう二度と巡ってはこないであろう、日本中がバブルに酔っていた時期であった。
 仕事には恵まれていたが、この頃の当社の実状は社内に問題を多く抱えていた。
 しかし、仕事に追われ、社長としてそのことに気がつかなかった。社員が造反する、突然辞める、現場でのミスが増える…。これに追い討ちを掛けるように客からのクレームが増えた。
 大工の不足は慢性化しており、渡りに船とばかりに売り込みの渡り職人を使ったら、建て入りが2階桁で一寸も傾いた家ができ、途中で壊して建て直す始末だった。
 肝っ玉の小さい私の、コールアレルギー(電話嫌い)はこの頃からはじまった。

 そして未だに文明の利器であるケイタイを携帯することを躊躇している。他人には、「クレームは宝の山、ピンチをチャンスに」などとお説教しているが、当時は人からのミスの指摘を素直に受け入れられず「全て社員がだらしないからだ」とその度に社員を叱責し、責めまくった。決して傲慢無頼の社長であった訳ではなかったが、なぜ過ちをもっと素直に認められなかったのか、と反省している。 
 社員30名足らずのちっぽけな会社に派閥みたいなものができ、群れてはコソコソ、工事は営業を、営業は工事をお互い責め合うことばかりで、協調などはどこを探しても見つからない会社になっていた。
 しかし、このような事態に手をこまねいていた訳ではなかった。
 経理事務所から経営コンサルタントを紹介され、結構な金額であったが思いきって契約し、社内改革委員会などをつくり、体裁を張ってホテルの一室を借り、○○年度事業経営計画会議なども行ったが、結果は時間と金を浪費しただけだった。

 私はこのような経営コンサルタントの指導を否定するものではないが、少なくとも経営指導を受ける企業の条件として、経営者と社員の目的意識が一つになってまとまっていることが大切だ、と今になって思う。
 当時、我が社の社員意識はバラバラであり、皆、己のことばかり考えていたのだろう。社長である私自身、己の考えが全てと思っていたのだから、社員がまとまらなくて当然であった。
 当然これらの、研修は形ばかりのものとなり、大部分の社員は反発するか、無関心のどちらかで、「笛吹けど踊らず」という表現がピッタリの状況だった。

5.バブルの崩壊と環境の変化

 「借金も財産のうち」とか、「土地価格は上がることはあっても下がることはない」ということが常識としてまかり通っていた時期に、当社もなんの疑念も抱かずこの波に乗ってしまった。
 土地情報と借り入れ申し込み書を持って、毎日のように銀行員が来社する。「資材置場にどうですか」「建売用地にどうですか」などは良しとしても、仕舞いには「買っておけば儲かる」とまで言って勧誘された。
 土地ブームの始まりである昭和40年代に、借金が嫌で数多くあった土地の売り情報には手を出さず、全て客に紹介し、貸しビルなどを施工させてもらっていた。
 やがてその土地の価格、テナントのリース料が鰻のぼりに上がり、たちまち資産を倍増させているのを指をくわえて見てきた者としては、今度は失敗しないとの思いが強く、土地売り込みの話があると全て引き受けてしまった。
 気がついてみると、土地を始めとして、株券、ゴルフ会員権など、膨大な資産を買ってしまった。
 当然、資産が増加するのに正比例して、借入金も増加した。それでも「金よりモノ」の考えから抜け出すことができなかった。

 やがて、昭和から平成へと時代が変わり、経済環境が一変した。
 高騰を続けていた土地、株、ゴルフ会員権がそろって暴落した。今までの「金よりモノ」の時代から「モノより金」の時代に180度変わってしまった。
 我が社を取り巻く環境も変化し始め、今までは仕事はいくらでも受注できたが、職人が足りない、資材が高騰するという悩みが、今度は職人が余るようになり、資材も値下がりしてきたが、今度は仕事が取れないという悩みに変わってきた。
 また、借り入れして買った土地などの価格がずるずると下がり始めた。資産がどんどん減っていくのに、借入金はドカンと居座り経営を圧迫しだした。
 思い切って土地を処分して資産を減らし、借金の返済に努めた。その結果、土地処分のための赤字を毎期償却することになり、いつしか赤字体質の企業に堕ちてしまった。創業以来初めて経験する赤字決算に遭遇し、このままでは潰れるかもしれないと本気で考えるようになり、経営改革の必要に迫られた。

6.気付きと反省

 バブル経済の崩壊という事態 があったにせよ、経営のピンチを招いたということは誰のせいでもなく、経営者である自分自身の責任であったが、曲がりなりにも工務店経営を今まで真面目にやってきたのに、どうしてこんなことになったのか、と本気で考えるようになった。
 そして、創業時にある人から諭されたことに思い当たった。
 会社設立の数年前に、大工をやめて他の職業につきたいとある人に相談したことがあった。その時、その人から職業の意義について言い聞かされたことを思い出した。
それは「君の仕事である家づくりは、君に与えられた天職であり、人に喜びを与えることができる素晴らしい仕事である。君ならきっと成功する、誇りを持ってがんばれ」と言って、色紙に次のような短歌を書いてくれた。

 起き伏しの 尊き家の 建つ見れば 君の仕事は いよよ尊し 

 当時は天職の意義などと教えられても、頭では理解できるが、心では分からない、というのが偽りのない気持ちだった。
 そして「事業経営が精神論でできるわけがない」などと高を括っていたが、試行錯誤の経営を長年続けてみて、やっと工務店経営の本筋に目覚めたと思う。
 経営の大きな苦難に直面し、改めてこの時の天職の意義について考えた時、全ては自分自身に原因があったのだいうことも悟れた。
 それまでは強気で押してきた私も、「潰れるかもしれない」という経営のピンチに立たされて、やっと気付きと反省の気持ちが起きてきた。

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